社会人という肩書を得て行ったことと言えば、「サラ金」から金を借りること。
このころが一番腐っていた。
その時の心理も思い出しながら整理して残してみる。
借金を抱えたまま、社会人となり上京
学生時代(大学3年生)、パチスロにハマってしまい借金を作り始めた私。学生ローンなど今思えばかなり怪しい橋を渡りながらも就職活動してそれなりの企業から内定をもらい、東京に上京した。
就職が決まってから卒業するまでの間もバイトしてはその金でパチスロに散在する日々。
学生ローンは利子のみを返済。怒られることはないが、借金は減らなかった。
就職活動の中で会社からもらった交通費(実費との差額)もサンドに投入していった。
ちなみに、学生時代当時付き合っていた子もいたが別れた(フられた)。もちろん原因はパチスロである。社会人になってからものすごく後悔したが、なぜかパチスロはやめられていない。パチスロの魅力はすごいな。
当時の私はだれがどう見ても間違いなくギャンブル依存症。
4号機がバリバリの現役で稼働していたんだからしょうがない(よね?)
新人研修が終わったら即サラ金に申し込む
東京に移り住み、入社式を経て新人研修が始まった。
会社では普通に過ごしていたが、新人研修時期は定時上がり。
18時には自宅近くの駅に到着しているのである。
駅前には残念ながらパチンコ屋が何軒もあり、吸い込まれ、打って、負けた。
新人研修が終わるころにはもう家族からもらった餞別も会社からもらった給料も使いこんでしまい、どうしようもなくなってしまった。
当時、通勤費は会社から支給されていたが私は定期券を買わず、回数券を買って差額をパチスロに突っ込んでいた。
少し考えれば圧倒的に定期券を買った方が安いし、万が一現金が尽きたらヤバいのは理解できるはずだが、それすら考えられなかった状態だった。
サラ金ビルに飛び込む
自宅の最寄り駅には消費者金融会社が3社4社まとめて入っている「サラ金ビル」があった。
当時は消費者金融CMもバンバン打たれていた時代。規制が入る前。
最初に入ったのは「アコム」。
無人契約機は当時からあった。免許証と会社の連絡先を書いた。
すぐにOKが出てATMから10万円が出てきた。脳汁も出た。その足でパチスロを打ちに行った。
そこからはよくある雪だるまパターン。
アコムの限度額50万まで行くと、サラ金ビルに同じく入っていた「プロミス」に飛び込む。
ここでは40万まで借りることができた。
借金は増えていく。
キャッシュカードのようにサラ金を使う日々
このころの私の頭は完全におかしくなっていた。
キャッシュカードで自分の預金からお金を引き出すかのごとく、夕方にサラ金から金を借りてはパチスロを打ち、負ける。
このキャッシュカード感覚で、といのが消費者金融の恐ろしさだと思う。まるで自分のお金だと勘違いしてしまう。そんなことはないのに。金利もすごく高くて、学生ローンの分も含めて借金は優に100万を超えてしまう。
土日も1日中パチスロである。
会社で受けろと言われていた資格試験の勉強もしない。友達とも遊ばない。
仕事もちょいちょい1年目から休むなどかなりのクズっぷり。
お金以外にも失ったものは多い。目に見えないだけに考えるのも嫌になるほど色々なものを失った。
正気に戻った瞬間・・サラ金からの暗黙のメッセージ
サラ金の借金は順調に増えていった。
パチスロで勝てないのである。ズブズブ負ける。でもやめられない。
当時は堅いAタイプを打つことは少なく、AT機やストック機にガンガン突撃しては撃沈していた。
反省してジャグラーを打つこともあったが、すぐに刺激が欲しくなって爆裂機に舞い戻るのである。
もちろん、設定とかは意識していた。
でも、早く打ちたい気持ちが強すぎて、あまりにもお粗末な推測(こじつけ)で根拠が薄い台に座ってしまっていた。
アコム(50万)、プロミス(40万)それでも金がなくなるので、次はアイフルに申し込んでみる。
アイフルに申し込んだのが私の借金人生のターニングポイントだったんだろう。
アイフルからの回答は「10万まで」だった。
背筋が凍った。正気に戻った瞬間である。
知ってる人は知っているだろうが、私がどこからいくら借金しているか、というのは金融関係者なら照会すれば知ることができるのである。
私の借金履歴、金額を見て「おまえはもう10万円までしか貸さない」と宣告されたことに気づいたのである。
借金は学生ローン、消費者金融3社で150万円近くまで膨らんでいた。
社会人2年目になったころの話。サラ金から金を借り始めて1年足らずで100万以上も借金を増やしたのである。
もう後がない
そう自覚せざるを得なかった。
一念発起!返済を決意する
さすがにこれではダメだ。人生崩壊すると感じて借金返済を決意する。
返済方法はパチスロの勝ち金
パチスロへの取り組み方を変えた。
とにかく勝つパチスロを徹底して実行した。
メインはハイエナである。
4号機後半はストック機が多く、特定のゲーム数を狙い打てば勝率を上げることができた。
それを会社帰りに店舗をハシゴして台があれば稼働。
ネットや雑誌を読み漁り、ハイエナゲーム数は現役機種はほとんど記憶した。
吉宗の1300ゲームが下皿タバコで放置されているのを見つけたら、店員に行って開放してもらうように言うぐらい徹底してやった。
店選びも変えた。自宅近くの店にだらだらと行くのではなく、休日は朝から抽選で100人200人と並ぶような店に行き、設定狙いもした。結果、高設定と実感できる台を打つ機会もできた。
収支もつけるようにした。どの店で何を何ゲームから打って収支はどうだったか、と。
収支はマイナスからプラスに転じた。
これだけ意識を変えてパチスロを打つようになると、月に10万~30万くらい勝てるようになった。
2年目冬のボーナスで完済
借金はみるみる減っていき、会社のボーナスも返済に充てて2年目の冬にはすべての借金を返済することができた。
借金はなくなったが、仕事では同期に比べて大きく遅れてしまうし、友達と遊ぶなんてこともなくなってしまった。
後日談1 プロミスで再度ちょっとだけ借りたときの恐怖
一度全額を返済したサラ金だが、何を血迷ったかプロミスのカードだけは捨てずにサイフに忍ばせていた。
パチスロを打つ習慣は借金返済後も変わらなかった。
多少は緩くなったが、節度を守った打ち方になり、負け額も生活が困窮するほどにはならなかった。
しかし、実家に帰ったタイミングでたまたま吉宗を打ちに行き、天井までハマったことがあった。
持ち金が足りず、実家はど田舎なので銀行ATMも近くにはない。(当時はまだコンビニとかにATMはそこまで普及していませんでしたね)
サイフの中にプロミスのカードがあったことを思い出し、天井に間に合う分だけ。。と2万ぐらい借りた。
その時、突然プロミスのATMに据え付けてある電話が鳴ったのである。
恐る恐るとってみると、キレイな声のお姉さんがこう言うのである。
「お客様、今の限度額を拡大できますよ」と。
これもかなりゾッとした。
おそらく、ATMにカードを差し込んだ時点で顧客リストと照合して、
「あいつしばらく借りてないけど、借りに来たからもっと借りられるように営業しろ」フラグが立っていて、コールセンターからの電話対象になっていたのかもしれません。
サラ金は怖い。間違いない。
その後すぐに全額返金し、カードも捨てた。
後日談2 グレーゾーン金利で金が返ってくるか確認してみた
ここで一気に時間が飛んで、2016年。
2020年には下火になったが、昔のサラ金から金を借りていた人が裁判を起こして払いすぎた利息を取り返す人が多くいました。
私がサラ金から借金していた時代の金利はいわゆる「グレーゾーン金利」というもので、端的に言うと法律で定められた上限を超えた利率が設定されていた。
たしか、10万借りたら翌月全額返済するときには10万5千円必要なくらいだったと思う。(年利16.6%とか)
このグレーゾーン金利で払いすぎた利息は、裁判をすれば戻ってくるという判決が出、その後、CMやら雑誌やらに「払いすぎたお金、ありませんか?」とかいう広告がドカドカ出ていた。
私も1年ほどではあるが、グレーゾーン金利で3社(アコム、プロミス、アイフル)から借りていたので、念のため、と思ってナントカ法律事務所に連絡していくら帰ってくるか計算してもらった。(計算は無料、裁判を起こしてお金を返してもらうのは有料)
〇〇法律事務所は、CMとかをバンバン打っていて、電話番号もわかりやすい、事務所も新宿ということもあって私が事務所に行った日も結構な人がいた。
事前にサラ金3社に赴いて借金の借り入れと返済の履歴を入手、それを渡してあとは流れ作業的に弁護士がサラ金3社にFAX(訴えるぞ的な書面?)を出して後は結果待ちに。
すごく手慣れていてちょっとびっくりしました。(後から知りましたが、このグレーゾーン金利の借金を返してもらう裁判は弁護士的にはとてもオイシイ仕事です)
2週間後ぐらいに弁護士から連絡が。
「サラ金から返ってくる額は約5万」
「裁判すれば5万かえってくるけど、報酬と差し引きでほぼ残らない」
ということでした。。
残念(?)ですが、じゃあもういいです、といって終わりにしました。
後日談3:現在のパチスロとの付き合い方
2020年になった今でもパチスロを打ってる。
初めて打ったのが2001年だったのでもうすぐ20年。(書いてて驚いた・・もう40だしな)
今は結婚し、家族がいるし、小遣い制で、時間もあまりないので、AT機を打つようなことはできず、ジャグラーやアクロスなどのAタイプを中心にシコシコ打っている。時にはお小遣いがなくなってションボリすることはあるが、生活に困窮するまで打ち込むことはもう無い。
2001年~2006年頃は4号機爆裂機がホールにあり、本当に気が狂ったように打っていました。あの頃の自分は100%ギャンブル依存症だったと言える。間違いない。
今はどうかというと、こうやって文章を書いたり、子供と遊んだり、仕事をまじめにやったり、そのスキマで息抜きとしてのパチスロで楽しむことができるようになった。
パチスロが4号機から5号機、そして6号機へと移行した点も影響していると思う。
4号機の反省からか、パチスロのギャンブル性はどんどん落ちている。
パチスロファンとしてはギャンブル性が落ちるのは悲しいが、サラ金からの借金地獄にはまりかけた私からすると、今でも4号機並みの爆裂機だらけだったらギャンブル依存症は治まっていなかったと思う。
20年経ってようやくギャンブル依存症が「寛解した」。
寛解…症状が落ち着いて安定した状態
振り返って
サラ金や学生ローンの借金については友人、恋人、家族、誰にも打ち明けず、1人で抱え込んでいた。
当時は誰としゃべっていても、何をしていても頭の片隅には「今月の返済どうしよう」とかがあって心ここにあらず状態、だった。きっと、表情も覇気がない顔が多かったと思う。
私はたまたま全額返済までこぎつけた。勉強代としては少々高かった。
でも、失われた20代を取り戻すべく40歳にになってからアレコレ始めようとしている気になったし、過去は振り返ってもしょうがないのでこの記事を書いて反省は終わり!